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2017年09月15日

避難所としての名取市文化会館

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1.名取市と名取市文化会館について

名取市は、仙台市の南側に隣接する、人口約7万人のまちである。国道4号線バイパスから西側山側の地域と、閖上(ゆりあげ)という漁港、名取市と岩沼市にまたがる仙台空港のある東側海側の地域に分かれる。市役所、市体育館、文化会館は、国道4号線バイパス東側(海側)に並んで立地しており、市の中心エリアを形成している。仙台空港へ通じる高速道路の仙台東部道路は、上記市役所エリアの東側に位置している。名取市文化会館は、財団法人名取市文化振興財団が運営する施設で、大ホール(1350席)、中ホール(450席)、小ホール(200席)、その他に会議室、講義室、和室、展示ギャラリー、リハーサル室、音楽練習室、演劇練習室、楽屋などがある。(延床面積:13652.9㎡)

2.大地震発生当日(2011年3月11日)

大地震発生当日、名取市文化会館では特に大きな催し物はなく、館内の人は比較的少ない日であった。名取市では、震度6強を観測した。地震発生から約1時間後に津波が襲来して、名取市の海側の地域は、報道にあったように、閖上漁港や仙台空港などが、甚大な被害を受けた。


Fig-1. 津波被災マップ(日本地理学会資料より)
    文化会館は、地図左側のほぼ真ん中あたり


Fig-2. 閖上のまちの津波被災状況

名取市文化会館は、海岸線から約5~6㎞離れた場所に立地している。先述した仙台東部道路は、盛り土の上につくられていた。それが一種の堤防の役割をして、市街地側への津波の侵入を遮り受け止める役割をした。そのため市役所エリアまでは、あと1㎞の近くまで浸水したが、届くことはなかった。
 文化会館は、非常用電源(ディーゼル発電機)があったため震災直後も照明がともっていたので、海岸の方からの人が集まり避難所となった。周囲は、ライフラインが止まり、街中が真っ暗な中、文化会館は光があり、市民が集まった。

3.避難所としての文化会館

文化会館は、市があらかじめ指定していた避難所ではなかった。しかしながら、ずぶ濡れになり裸足で避難してきた方たちの様子を見て、受け入れをはじめ、避難所となった。「避難所ではないから」ということで、地震直後に避難してきた人を断ることはしなかった。会館事務局長によると、最初の3日間は徹夜で避難されてきた方たちの対応に当たったとのことである。
当初は1300人ほどの人たちが寝泊りしていた。主たる避難所スペースとなったのは、ホール空間以外のエントランスホールやホワイエであるが、和室、講義室などの小部屋も避難所として開放された。それらのスペースは、冷暖房可能であり、換気のみの小学校体育館などと比べた時、その居住性は高いと言える。また小部屋の一部は、病気(風邪、インフルエンザ、ウイルス性腸炎)の人を隔離するために使われ、感染者の拡大を抑えることができた。


Fig-3. 避難所として使われるホワイエ

 長期化する避難生活のために、間仕切り用の段ボールが用意されたが、隣近所の方同士が多いということもあり、完全に閉じずにお互いの絆のために、少しずつ開いて暮らしていて、段ボールは余る状況であった。
仮設住宅が整備され、避難所としての役割は6月4日で終えた。84日間避難所として機能したことになる。6月18日には市主催の合同慰霊祭が、文化会館でとりおこなわれた。8月からは、一部貸し出しを再開し、小ホールを中心に、市民の文化活動がリスタートし、ミュージカルの練習やピアノの発表会が行われている。復興支援・慰問コンサートもひらかれている。

4.今後のための考察

 名取市文化会館は、避難所として機能することを想定した設計は行っていなかった。とはいえ、公共施設が基本的に備えていなければならない性能を持っていたために、避難所として機能することができた。その要件を、以下に整理して考えたい。
[建物のハード面]
・構造体は、健全性を保っていた。
・非常用電源が、あった。
・和室、講義室などの小部屋があり。隔離部屋として感染者の拡大を抑えることができた。
[建物のソフト面]
・指定避難所ではなかったが、避難所となった。
名取市の場合、文化会館に近いエリアは、幸い水や電気といったインフラ関係は、そんなに日がかからずに回復をした。一般論として考える時、非常用電源、熱源の燃料をどれだけ貯蔵しておくかの問題をクリアすれば、避難所として機能するかどうかは、建物の基本的な性能(耐震性、冷暖房、小部屋があること)に帰着するといえる。劇場・ホールは、エントランスホールやホワイエなどの大きなスペースと、楽屋などの小さな部屋の組み合わせで成り立っており、避難所としてのスペースの汎用性は備えていると言えそうである。あとは、それを成り立たせるソフトすなわち会館管理者の柔軟な対応が必要となる。

 復旧・復興のプロセスには、長い時間がかかる。避難所としての役割も緊急時には重要であるが、一方で、名取市文化会館において再開した市民の文化活動や復興支援・慰問コンサートのことを見聞すると、緊急時を過ぎてからは、文化会館の本来の役割を果たし、文化活動を含めての復旧・復興の拠点となることも、重要なことであると考える。
(劇場演出空間技術協会 JATETフォーラム2011資料集に寄稿)

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東日本大震災の被災地を訪ねて

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被災後2年経った岩手県三陸沿岸を下る

被災から2年を経た東日本大震災の被災地を訪問するということで、岩手県三陸沿岸の地域の視察を行った。(2013年5月18日(土)、19日(日))一日目は、JIA岩手地域会の六本木久志会長から説明をいただいた。
(1)盛岡駅を出発後、本州一極寒の地である岩洞湖(人造湖)を通り、田野畑村に向かった。田野畑村体育館(1985年、設計:早稲田大学穂積研究室/古谷誠章)と田野畑民族資料館(写真01、1990年、設計:早稲田大学穂積研究室+古谷誠章/近畿大学建築意匠研究室)を拝見した。1976年度建築学会賞を受賞した田野畑中学校・寄宿舎(設計:穂積信夫)は、残念ながら改築されたと伺う。


写真01 田野畑民族資料館

(2)普代村へ向かう。東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸にあって、岩手県普代村は死者ゼロ、行方不明者1人にとどまった。被害を食い止めたのは、かつて猛反対を受けながらも村長が造った高さ15.5メートルの防潮堤と水門。そして震災当日に、水門を手動で閉じた消防士のおかげだった。防潮堤の山側には住宅地が、海側には漁業のための施設が立地している。


写真02 普代村の防潮堤

(3)田野畑村北山崎は、陸中海岸国立公園の北方、田野畑村北山にある断崖絶壁の自然景勝地。北は黒崎、南は弁天崎まで続く高台の中間付近にある。「やませ」と言われる風や濃霧が海上に発生しやすく、雲のような霧が断崖麓の海面を覆う時もある。と言われる。当日は、遠望がきく日で、そのような日はまれであるという。
 

写真03 田野畑村北山崎

(4)宮古市田老地区の防潮堤は二重になっており、上空から見るとX字状をしている。その巨大な防潮堤は、「万里の長城」と呼ばれていた。津波は防潮堤を越えて町を襲った。宮古市田老地区では家屋435戸が流出し、187人の死者・行方不明者が出ている。
 


写真04 宮古市田老地区


写真05 宮古市田老地区


図01 宮古市田老地区の津波被害 出典は下記。
http://www.chunichi.co.jp/article/earthquake/sonae/20110822/CK2011082202000111.html

(5)浄土ヶ浜は、陸中海岸国立公園の中心をなす宮古の代表的な景勝地。鋭くとがった白い流紋岩が林立する。松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストが、際立つ。浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681~1684)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと言われている。


写真06 浄土ヶ浜

浄土ヶ浜のすぐ近くに建つレストハウスも津波被害を受けた。遡上高さは6.5M。一方、浄土ヶ浜パークホテルは、浜近くの高台に立つ。海抜50Mにあるホテルは、大津波の被害を免れた。1カ月ほどは被災者の避難所として開放され、その後は救援や復旧のために全国から駆けつけた警察官やボランティアたちの宿泊所となった。観光客の受け入れを再開したのは震災の1年後だった。「宮古は観光都市。全国から観光客に来てもらって、復興の様子を体感していただきたい。そんな思いで営業を再開しました」とホテルの総支配人はコメントしたという。

(6)一日目は、国道45号線を普代村~田野畑村~岩泉町~宮古市へと南下した。二日目は宮古市~山田町~大槌町(吉里吉里)~釜石市と、さらに南下した。国道45号線は、リアス式海岸の段丘部と市街地や港のある低地とを交互に通過するため、段丘を上り下りする急坂やカーブが多い。仙台市から太平洋沿岸を経て青森市に至る。東日本大震災による地震と津波により、落橋、道路流失、法面崩落など、甚大な被害を受ける。そのため、沿岸沿いに通行することがかなわず、震災直後は、盛岡市や花巻市など内陸部からの串刺しの多くの道路が救援のルートとなった。震災の影響による通行止が全てなくなるまでに、およそ1年間がかかった。(震災直後の道路については、「前へ」(麻生幾著、新潮社)第二章が詳しい。下図出典も同じ。)


図02 震災直後の道路状況
釜石から、遠野伝承園(南部曲り家菊地家)、カッパ淵、千葉家南部曲り家を経て盛岡に戻る。

普代村と田老町

普代村では明治29年の大津波で302人、昭和8年の大津波でも137人の犠牲者を出した歴史があり、昭和22年から10期40年にわたり普代村の村長を務めた和村村長は「悲劇を繰り返してはならない」と防潮堤と水門の建設計画を進めた。昭和43年、漁港と集落の間に防潮堤を、59年には普代川に水門を完成させた。 2つの工事の総工費は約36億円。人口約3千人の村には巨額の出費で、建設前には「高さを抑えよう」という意見もあったが、和村村長は15.5メートルという高さにこだわった。「明治の大津波の高さが15メートルだったと村で言い伝えられていた。高さ15の波がくれば、根こそぎやられるという危機感があったのだろう」と言われる。和村村長は反対する県や村議を粘り強く説得し、建設にこぎつけた。  

3月11日の地震直後、自動開閉装置の故障を知った久慈消防署普代分署の消防士は、村を流れる普代川の河口から約600メートル上流にある水門に向かって消防車を走らせた。故障したゲートを閉めるには水門上部の機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。機械室に駆け上がって手動スイッチに切り替えると鉄製ゲートが動いた。消防車に乗って避難しようとしたとき、背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いた。普代川を逆流してきた津波が黒い塊になって防潮林をなぎ倒し、水門に押し寄せてくる音だった。アクセルを踏み込み、かろうじて難を逃れた。津波は水門に激突して乗り越えたが勢いはそがれた。水門から普代川上流にさかのぼってほどなく止まり、近くの小学校や集落には浸水被害はなかった。  
http://photo.sankei.jp.msn.com/essay/data/2011/04/0427fudai/ の記事をまとめた。)

「日本一の防潮堤」「万里の長城」住民たちは、そう呼んで信頼を寄せていた。岩手県宮古市田老地区にあった全国最大規模の津波防潮堤。だが、東日本大震災の未曽有の大津波にはなすすべもなく、多数の死者と行方不明者が出た。約4400人が暮らす田老地区は「津波太郎」との異名がある。1896(明治29)年の明治三陸津波で1859人が、1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた。防潮堤は、昭和三陸津波襲来の翌34年に整備が始まった。地元の漁師らによると、当時の田老村は、高所移転か防潮堤建設を検討。結局、海に近い所に住みたいとの村民の要望や代替地の不足から防潮堤建設を決断し、当初は村単独で整備を始めた。工事は中断を挟みながら段階的に進み、半世紀近く後の78年に完成。総工事費は80年の貨幣価値に換算して約50億円に上る。こうして出来上がった防潮堤は、海寄りと内寄りの二重の構造。高さは約10メートル、上辺の幅約3メートル、総延長約2.4キロと、まるで城壁のようだ。岩手県によると、二重に張り巡らされた防潮堤は世界にも類はない。総延長も全国最大規模という。60年のチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たが、田老地区では死者はいなかった。日本一の防潮堤として、海外からも研究者が視察に訪れるほどだった。しかし、今回の津波は二つの防潮堤をやすやすと乗り越えた。海寄りの防潮堤は約500メートルにわたって倒壊し、所々にコンクリートの残骸が転がっていた。朝日新聞2011年3月20日の記事の抜粋。
http://www.asahi.com/special/playback/TKY201103190440.html より )

田老地区を歩いて回ると、至る所で津波への注意を喚起する看板を目にする。「万里の長城」に代表されるハード対策に加え、避難などのソフト対策や防災教育にも熱心なことがうかがえる。旧田老町は昭和三陸津波の70周年に当たる2003年3月3日、「津波防災の町宣言」を発表した。それには、「近代的な設備におごることなく、文明とともに移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます」とある。まさに、津波は「近代的な設備」を越えてやってきた。  日経新聞2011年4月4日の記事の抜粋。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK01023_R00C11A4000000/?df=3 より )

東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた岩手県宮古市田老地区の防潮堤(総延長2433メートル)の本格的な復旧工事が14日、始まった。X字形の2重の防潮堤のうち、地盤沈下した陸側の第2線堤を平均70センチかさ上げする。第2線堤は構造物自体は損壊しなかったが、地盤が最大90センチ沈下。延長1050メートルのうち水門部分を除く965メートルをかさ上げする。幅数メートルの防潮堤最上部の海側にコンクリート壁を並べ、震災前の高さ(海抜10メートル)に調整する。 工事は岩手県が9月25日までの工期で実施。事業費は約6770万円。当初、3月下旬の着工を予定していたが、資材不足などのため遅れていた。県によると、津波で大きく損壊した海側の第1線堤の復旧工事は年内の着工を目指す。第2線堤と接触する部分で津波が高さを増し、堤体を越えたと言われていることから、計画では第2線堤から約70メートル海側に離した上で、海抜14.7メートルの高さにする。
河北新報2013年5月15日の記事の抜粋。
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/05/20130515t31010.htm より )

水と大地のいとなみ

陸中海岸国立公園の北山崎や浄土ヶ浜の美しい景観を産み出したのは、水と大地のいとなみであり、三陸の豊富な水産資源を産み出したのも、同じものである。その自然のいとなみが、3月11日は大津波となって、襲い掛かった。普代村も田老町も、明治と昭和の三陸津波を経験した後に、村長が先頭にたって、ハードとソフトの対策を積み重ねてきた。状況は、一つ一つの湾や浜によって異なる。地形のありようは変わり、湾や浜のスケールが異なる。あるところで良かった考え方が、別の場所でも良いとは限らない。漁業を主な産業とし、漁港である湾や浜に根ざした人々のための環境は、個別に一つずつ考えなければならないようである。

地震による被害は、100%から0%までのいろいろな段階の被害があるが、津波による被害は、大づかみに言えば、100%か、0%かしかないように思われる。津波の水が来たか、来なかったか、が隣り合うつらい状況である。

今回東北地方に起こったことは、次は日本のどこででも起こりうることである。日本にいる限り、いつ被災者になってもおかしくない。JIAという組織体は、それに備えなければならない。東北支部が蓄積してきた知見、活動に学ばなければならないと考える。
( 2013年5月 JIA城南地域会アーバントリップ報告 )

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