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「原点としてのベルリン・フィルハーモニー」

0.はじめに

 ミューザ川崎シンフォニーホールは、中央にあるステージを客席が取り囲むワインヤード形式のホールである。ワインヤード形式のホールは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であるベルリンのホールが、そのさきがけと言ってよいであろう。この小論では、ミューザ川崎シンフォニーホールの言わば原点とも言うべきベルリン・フィルハーモニーについて考察し、建築家がどのような考えに基づいて、そのホールをつくり、音楽家がどのように受け止めたかを振り返ってみて、ワインヤード形式のホールの持っているポテンシャルについて考えてみたい。

1.ベルリン・フィルハーモニーの設計コンペ

 第二次大戦の戦災により多くの建築が破壊されたベルリンでは、1945年の終戦から10年ほどたった1956年にフィルハーモニーのために新しい音楽堂が計画された。その設計案は、コンペによって選ばれたものであった。

 ベルリン・フィルハーモニーは、ムジークフェラインザールを本拠とするウィーン・フィルハーモニーに並ぶ世界屈指のオーケストラである。ベルリン・フィルは、1882年に創立され、ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーらによって率いられてきた。フルトヴェングラーは、1922年に常任指揮者に就任し1954年に亡くなるまで基本的にその職にあった。後任にはヘルベルト・フォン・カラヤンが選ばれ1989年に亡くなるまで常任指揮者をつとめた。フルトヴェングラーもカラヤンも30年以上に渡ってベルリン・フィルを率いたことになる。そこには、街に根ざしたオーケストラが、個性ある指揮者によって長い年月率いられ、ホームグラウンドにしている音楽堂で定期演奏会を開くという構図がある。

 新しい音楽堂は、常任指揮者になって数年しかたっていないカラヤンにとって、これから自分の時代をつくっていくという時点で計画されたものだった。設計コンペでシャロウンの案が当選したが、1959年敷地が変更になり、1960年に着工し、1963年オープンした。シャロウンは、フィルハーモニーにつながる室内楽ホール(950席)をさらに設計した。それは彼の死後15年たって1987年に竣工した。

2.建築家シャロウンのコンセプト

 では、建築家はベルリン・フィルハーモニーのためにどのようなホールがふさわしいと考えたか?シャロウンは、そのホール設計のコンセプトについて、以下のように述べている。

 音楽が焦点となる。これが最初からの基本方針である。主となるべきこの考えは、ベルリンの新しいフィルハーモニーのホールに形を与えるだけでなく、建物全体の計画の中で、最も優先されるべきことである。オーケストラと指揮者は空間的にも視覚的にも中心に位置する。数学上の中心ではなかったとしても、彼らは聴衆によって完全に囲まれるのである。ここでは、「作り手」と「受け手」の分離はなく、最も自然な座席配置でオーケストラのまわりにグルーピングされた聴衆のコミュニティを見出すであろう。ホールは、その大きさにもかかわらず、親密さを持ち、直接的で共に音楽を創り出す雰囲気を共有することができる。ここで音楽の創造と経験は、形の美学によってつくりだされるのではなく、仕えるべきその目的から導き出されるのである。人間と音楽と空間が新しい関係のなかで集合するのである。

 全体の構成は、一つのランドスケープによっている。ホール全体は谷のように見え、その底にはオーケストラが位置し、そこに隣接し上っていく丘にワインヤードが広がる。テントに似た天井は、大地の風景に対する空の風景になっている。凸型のテントに似た天井は、音響と深く関連していて、その凸型は、できる限り音を拡散しようという要求に基づいている。ここでは音はホールの一方の狭いサイドから反射されるのではなく、中心の深みから湧き起こり、すべての方向に伝わり、そして聴衆の中に降り、広がるのである。最も遠くに座っている聴衆にも最短で音の波が届くように努力が行われた。音の拡散は、ホールの壁の反射、さまざまなレベルに不規則に配置されたワインヤードの側壁の反射によって達成されている。これらは、音響学の分野でなされた進歩に拠るところが大きかった。まったく新しい領域が発見、探求、そして達成されたのである。

 この建物を構成するすべてのディテールを決定しているのは、ホールに対する要求である。外観の形態に関することであっても、屋根のテントのような形態に良く表わされている。ホールをメイン・ホワイエの上に浮かすことにより、補助的なスペースはそれぞれの性格が決定された。どの部屋も、それぞれ固有の機能を自由に展開させることができた。階段群はホワイエに展開し、その生き生きした形をホールの要求するところに適合させている。

 このようにすべては、音楽的な経験する場をつくることを目指されている。補助的なスペースも祝祭的な静けさを持つホールに対して、ダイナミックで緊張をはらんだ関係を保っていて、フィルハーモニーの王冠の中のまさに宝石となっている。

 シャロウンのコンセプトは、音楽を奏でるオーケストラをホールの中心に置き、その周囲をワインヤード状の客席が取り囲み、ホワイエや建物の外観は、そこから展開されるものであった。

 シューボックス型のホールに見られるように演奏者と聴衆のかたまりが向き合って対峙するのではなく、聴衆が自然と演奏者を取り囲む関係を建築化した。ホールは内部空間の要求をベースとして、内から外へと設計されなければならないと考えられていた。そのテントのような屋根の形態からフィルハーモニーは、「カラヤン・サーカス」と呼ばれていた。外壁は当初財政難を理由にコンクリート打放しのペイント仕上げに減額されたが、後年1980年代に金属製パネルで覆われることとなった。

3.カラヤンの評価

 そのように構想されたホールに対して、音楽家はどのように考えたか?コンペが行われた時に、カラヤンが審査委員会に対して送った書簡は次の通りであった。

 応募作品のなかで、特に抜きん出た作品が一点ある。
演奏者を中央に配することを原則とした設計である。(作品番号は忘れたが、全体が白く座席の部分が金色の模型だ)。この設計はいくつかの点で優秀と思われる。壁面の配置が音響的に優れている上に、何より印象的なのは聴き手が音楽に完全に集中できる点だ。現存するホールの中で、この設計ほど客席の問題を巧みに解決している例を、私は知らない。私も補佐役のヴィンケルも、オーケストラを中央に配するこの設計は、いかなる既存のホールにもまして、ベルリン・フィルハーモニーの音楽スタイルにふさわしいと考える。このオーケストラの第一の特徴は遠くまで届く音と、音楽のフレーズの初めと終わりにおける特別な呼吸にある。したがってこの設計は、本番にもリハーサルにも理想的な場を生みだすことだろう。

 この新しいホールをホームとする音楽家側からの意見が、コンペの実施案を選ぶ際に与えた影響は大きいものであったであろう。建築サイドの審査員だけが、シャロウンの案を推したとしても同じ結果になったかは分からない。カラヤンは、音楽映画をつくったり、自らオペラの演出を手がけたりと、音楽家の中でもとりわけ視覚的なファクターに関心を持つ音楽家であった。そのような資質を持つ音楽家が、シャロウンの案を推したのであった。

4.音響設計と視覚の効果

 音響設計を担当したのは、その方面でドイツにおける先駆的業績を持つクレーマー教授であった。彼は、初期反射音の問題についてシャロウンが忘れないように常に注意を喚起していたが、一方で音楽が中心にあるということに対しては音響設計的には懐疑的であった。シャロウンは、メイン・コンセプトから離れるのは拒否したが、できる限り色々な方法を考えて、クレーマーに応えていこうとした。後にクレーマーは、シャロウンは今まで協働した建築家の中で最も適応力があり、自らのコンセプトをこわすことなく常に音響上の要求に応えることができたと述べている。

 シャロウンが与えた複雑な形態(それは、ホールだけでなく、さまざまなビルディングタイプの建築で追求されていたものであった)は、音響上有利な側にはたらいた。純粋幾何学に基づく円形や矩形は、音の一点への集中や、フラッター・エコーの原因になるからである。フリーフォームの不整形な形態は、形やものの大きさに関する正確な知覚を失わせるものであった。ホールの中心から見た時、ホールは実際の距離よりは小さく、親密に見えるのである。また指向性のあるトランペットやトロンボーンのような楽器や人間による声に対しては、ステージ背後の席は音のバランスをうまくとることができない。しかし通常は見ることのできない指揮者の表情は、見ることができ、その視覚上の情報が聴覚を補っている。このように音楽を中心にというコンセプトに起因する音響上の不利な点は、設計上の工夫によって解決した点もあるが、それ以上にまさにこのコンセプトをもとにデザインされたホールの持つ豊かな視覚的体験によってカバーされ、このホール独自の音楽体験をもたらしているといえる。

5.コンペから建設へ

 そのようにして選ばれたシャロウンの案であったが、コンペ案の時に考えられていた敷地と、実際に建てられた敷地は異なっていた。もともとコンペ案の時に考えられていた敷地は、西ベルリンの中心に近い場所でブンデスアレー通りに面したものであったが、1959年そこから東ベルリンに近いティアガルテン地区に敷地は移された。そこは文化フォーラムとして、都市ベルリンにおける文化施設の集合するエリアとして構想された。それは、東西がふたたび統合された時のことを考えて選ばれた敷地だと言う。(ベルリンの壁が建設されたのは1961年であり、1959年時点では存在していなかった。)フィルハーモニーは、そのエリアでも最初に建設された建築であり、その後隣接して、シャロウン自身の設計による国立図書館(1978年シャロウンの死後竣工。その閲覧室はヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン天使の詩」の重要な舞台となった。)やミース・ファン・デル・ローエによるナショナル・ギャラリー(1968年竣工)が建てられた。それらは、すべてウンター・デン・リンデンなどに建てられた古典主義建築と比較すれば、まぎれもない近代建築であるが、正方形平面による整形で静謐なギャラリーと、シャロウンによるフリーフォームの不整形でダイナミックな建築は、対極的な建築のあり方を示している。東西ドイツが統合されるまで、このティアガルテン地区は、ベルリンの壁に近く西ベルリンにとっては周縁部に位置していたが、統合後は近くのポツダム広場も開発され、当初都市ベルリン全体にとって中心に近い場所として選択された意図が、40年以上たって現実のものとなった。

 ここで特筆すべきは、敷地は変わったが、ホールのデザインと言う点で見れば、コンペ案と実施案は基本的に同じであることである。メインエントランスからホワイエにかけてのスペースが敷地に合わせて変形されたにすぎない。シャロウンのホールのデザインは、敷地の形状から導き出されたのではなく、音楽ホールとして、そのようにあるべきと考えられたものであり、変更すべき理由はなかったのである。

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コンペ時の平面図(1956年)
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シャロウンによる文化フォーラムの構想図(1964年)

6.ホールとホワイエのデザイン

 ここで再びホールに戻り、そのホワイエも含めたデザインについて考えたい。ベルリン・フィルハーモニーのホールは、平面図を見て分かるように基本的にはシンメトリーである。最上部の席の上手に位置するオルガンが左右対称を破る要素となっている。ワインヤード状に配置されたブロック席は、平土間、1階席、2階席といったスタティックな配列ではなく、不整形なかたちのブロック席のかたまりが立体的にずらされながら、その最前列で音響上有効な側壁を形成しながら配置されている。したがって確かに中心軸上に立ってみればシンメトリーを意識することもできるが、少しでも中心軸からはずれて立つと、もはやシンメトリーを意識することはなく、ダイナミックに広がるワインヤードのランドスケープが広がるのである。垂直線や水平線はなく、床はゆるやかに傾いている。視覚的に大きな要素であるオルガンが中心軸上でなく、上部に追いやられていることも、シンメトリー感覚を弱めている。シンメトリーは感じ取れるものではなく、空間を統御する下敷きとなっている。またこのホールで特徴的なのは、大地の変形である座席と天空の変形である天井が卓越し、座席と天井が接する部分にある壁面がほとんど感じられないことである。

 客席は2218席である。そのうち約250席がステージの背後に、約300席がステージ側面に配されている。ホールの大きさは、長手方向には60M、短手方向には55Mであるが、最も遠い席からでもステージまでは32Mである。(ボストン・シンフォニーホールは2612席で、ステージまで40M)この近さ、親密さはステージを客席の中心に配置することで達成されている。ステージ上の天井高さは22Mで、ポリエステル製の音響反射板が吊られている。室容積は、26,000立米である。

 ホワイエのデザインを見ると、メインエントランスは、コンペ案と同様に中心軸とは関係ない位置に配置され、上層へと導くダイナミックな階段群は中心軸とはやはり関係ない方向で宙に浮いている。ホールを訪れた聴衆は、ステージ上手方向にあるメインエントランスから時計回りに大きく弧を描く方向のホワイエを大回りしながら、階段群を通りホールに向かう。赤いステンドグラスとホールを支えるV字型の柱がホールの中心軸を暗示しているが、それをそれとして認知することはできない。したがって、外部からメインエントランスを通り、階段を経てホールに至る経路は、ホールの中心軸とは無関係の動きであり、シンメトリー感覚を感ずることはできない。ホワイエでは視線は弧に沿って流れ、ホールでは視線は中心のステージに向かって集まる。立体的なダイナミックなホワイエの構成は、ホール内部と同じように「見る」「見られる」の関係をつくり出し、ワインヤードホールの序奏/プロムナードとなり、休憩時間にはホワイエはその経路を散策、徘徊する人であふれ活気を呈する。その立体的な経路を散策する経験もまた、このホール独自の音楽体験の一部となっている。

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7.分節から流れへ(アーティキュレーションからフローへ)

 ベルリンと川崎を比較してみた時、両者とも演奏者と聴衆の親密さをもたらすワインヤード形式をとりながら、その違いは客席とオルガンのあり方に見られる。ベルリンの客席がクラスター状のブロック配置の分節(アーティキュレーション)のデザインによっているのに対し、川崎は螺旋状配置の流れ(フロー)のデザインによっている。ベルリンではオルガンは上手上部に押しやられ、川崎はその流れに拮抗してステージ後方の中心に位置している。天井に接する壁面について見れば、ベルリンではその壁面はほとんど感じられないが、川崎ではそれを意識することができる。川崎では、ワインヤードの中で、ブロック配置のアーティキュレーションによらない、新しい流れをつくりだしたといえそうである。

参考文献
“Hans Scharoun” Peter Blundell Jones (PHAIDON, 1995)
“Hans Scharoun” Eberhard Syring, Jorg C.Kirchenmann (TASCHEN, 2004)
“Concert Halls and Opera Houses” 2nd Edition, Leo Beranek (Springer 1996)
「ベルリン・フィルハーモニック・コンサート・ホール」GA20、佐々木宏(ADA EDITA, 1973)
「音楽のための建築」マイケル・フォーサイス(鹿島出版会,1990)
「ヘルベルト・フォン・カラヤン」リチャード・オズボーン(白水社,2001)

(日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会 シンポジウム冊子「ミューザ川崎シンフォニーホール これからの音楽空間のあり方」所収)

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